エレガンスが色褪せない美であるように、彼女の美しさも色褪せることは無い。
オードリー・ヘップバーンは、イギリス人でアメリカで活躍した女優。
「ローマの休日」のベスパのシーンや「ティファニーで朝食を」のお店を覗き込む姿がとても印象に残っている。
彼女のファッションや言葉は大きな影響を与えた。
私は彼女のこの言葉がとても好きである。
彼女の品格の高さが伝わってくる言葉である。
人は誰しも不安に駆られ落ち着きを失ってしまうことがある。
そんな時にはこの言葉を思い出したい。
(不安であっても)自分は一人では無いということ胸に歩きなさい
ヘップバーンは、1993年に63歳でスイスの自宅で亡くなっている。
彼女の人生はどのようなものだったのだろうか。
本名は、オードリー・キャスリーン・ラストン。ベルギーで生まれている。
両親はヘップバーンが子供の頃に離婚。母親の元で育っている。
幼少期に第二次大戦を経験し、「栄養失調に苦しみ、重度の貧血と呼吸器障害、浮腫に悩まされた」と記録にあるのだから、裕福な環境でなかったことは伺うことができる。
その後ヘップバーンはバレリーナとして注目を浴びるようになる。
彼女の美しさの源はバレリーナにあったのかもしれない。
そして、ヘッププバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。
初めての役所はキャビンアテンダント。
大戦が終わってすぐに脚光を浴び始めるのだから、彼女の存在感は相当凄かったに違いない。
その後、ヘップバーンは演劇の世界へと舞台を移していく。
その理由を彼女はこう語っている。
「私にはお金が必要でした。舞台の仕事はバレエの仕事よりも3ポンド以上高給だったのです」
そして、「ローマの休日」で一躍大スターへと転身を遂げていく。
『ローマの休日』のヘップバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、思いも寄らなかったアカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘップバーンにもたらした。
私は「ローマの休日」のベスパに乗るこのシーンが大好きだ。
これを観てベスパが欲しいと思ったものだが、その値段の高さに諦めた苦い記憶がある。
と、それ以降の彼女の活躍は皆が知っていることである。
そして、彼女には「ユニセフ親善大使」として活躍していた一面もある。
死去する4カ月前の1992年9月にも、ヘップバーンはソマリアを訪問している。
当時のソマリアは、以前ヘップバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。
それでもなおヘップバーンは希望を捨ててはいなかった。
「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」
彼女の生涯を知れば知るほど彼女を好きになっていく自分に気がついた。
外面の美しさは、内面の美しさの現れであろう。
最後は、彼女の名言とそれを物語る彼女の映像で締めたいと思う。
「歳を取ると、自分には二つの手があるってことが分かるはず。一つは自分を助けるため、もう一つは他人を助けるための。」-Audrey Hepburn